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1)ユナイテッド VS スパーズ

結果はユナイテッドが1−0で勝ったのだが内容はまだいまいち。中盤は悪くないのだがどうもゴール前で鬼気迫りくるものが感じられない。これが単に私の大好きなテベスのせいでないことを願うばかりである。

前半開始直後はトットナムのペースである。25分くらいまではそのままの流れなのだがここから急にユナイテッドがペースをつかむ。中盤での圧倒的な支配軸にゲームを優位に進める。が、点は入らない。理由は2つ戦犯1号はライアン・ギグス。ボールに絡む回数も少ないしドリブル突破もあまり見られない。どうしちゃったんでしょう。昨シーズンとはえらい違い。この日好調を示したのはスコールズ。パスはもちろんなのだが、昨日はやけに切り返しやドリブルの1歩目にキレがあり、足の速い選手ではないのだが見ていてスピード感にあふれとても頼もしかった。また私はポジションか被ると思っていたハーグリーブスとキャリックなのだがこの日は2人同時に先発。意外に機能しているのに驚き。ハーグリーブスはあまりボールは回ってこず前半は消えている感もあったのだが、後半開始あたりから徐々にその存在感を増し、セカンドボールへの読みと反応の速さ、パスのインターセプトなどで抜群のセンスを披露。少し見直しました。キャリックは昨シーズン通りのプレー。ロングシュートもいいし無難に役割をこなしていた。この日唯一のゴールを決めたという意味では若干17歳の新加入ナニはこの試合のMVPなのかもしれないが、全てにおいてC・ロナウドに劣ると言わざるを得ない。つまりナニにあってロナウドに無いものが無いのだ。これは痛い。

トットナムはベルバトフがめちゃくちゃいい。プレミア遺跡1年目の去年も非常によかったのだが好調をキープしているようだ。ドリブルの懐の深さ、トラップ、ボールさばき、落ち着き、何もかもが見ていて惚れ惚れする。正直今プレミアNO1のFWだと思う。ジナースにはがっかり。先週は超目立っていたのだが、昨日はほんとにひどかった。完全に消えていた。他には意外良かったのがヤン・ピョー・リー。この韓国人DFは右利きにもかかわらず、不器用なチンボンダのせいで左サイドをやっているのだが、昨シーズンにはない積極性が見られた。しかもユナイテッド相手にである。これからが非常に楽しみである。

試合全体としてはユナイテッドがラッキーだったとしかいいようがない。トットナムは明らかなPK(ベルバトフのシュートを遮る、ペナルティーエリア内での相手DFのハンド)を取ってもらえなかったのだ。またナニのシュートもそうであるが、ほんとたまたま入ったという感がどうしても拭えない。ここがチェルシーと最大の違いである。詳しくはチェルシー戦の解説・感想で書く。


2)チェルシー VS ポーツマス

っていうかこの試合退屈。チェルシーの悪いところが全部出たという感じ。モリーニョになって4シーズン目だが年々ひどくなってきた気がする。何がというとサッカーのスタイルである。まったく躍動感が無い。このような戦力でこのようなトップチームがこんなにも退屈なサッカーをするのはほとんど犯罪である。私はほんとにがっかりなのだ。徹底的にスペースを消し、ボール支配率が50%を楽に切り、芸術的なカウンターを成功させるあたりが、あまりにもモダンサッカーの象徴なのだ。この点と点をつないで行く感じのスタイルは見ていてほんとにつまらない。しかし勝つのだ。それもユナイテッドのようにたまたまではなく。この日もランパードのロングシュート1本による1点を守りきり勝ち点3をあげたのだが、まずのこシュートはパス2本からのみ成っているのがミソだ。DFからのロングボールをドログバが3人のDFにかこまれながらも当然のようにキープ、そしてヒールパス。これをランパードが遠くから強引に叩き込んでフィニッシュ。まぁこれはこれでいいんだろうけど・・・。ただユナイテッドと一番違うのはこういうめちゃくちゃ(たまたま的)なゴールがこのチェルシーというチームではシーズンを通して毎度毎度90分以内に決まるということなのだ。そういうクオリティーを持っておりそれを鉄の精神力で年間通してやり続けるのだ。これはすごい作業である。波状攻撃をしかけ、日本的サッカーの美徳のようなよりゴールの決まりやすい形を作り出すことに専念するような(ショートパスを回して回して回してみたいな)、そういうサッカーではないということだ。徹底的に勝負に徹するサッカーなのだ。選手も監督もファンもみんながしんどいサッカーである。

ポンピー(ポーツマスの愛称)はやはりカヌーが目立っていた。あの異様なまでのボディーバランスとキープ力はただひたすら尊敬に値する。しかし彼は何故にあれほどもガリガリなのだろう。ポンピーの監督であるハリー・レドナップが面白いのは、一昨日の試合でもトップ下(4−3−3の中央王MF)にドリブラーのウタカを起用するところである。常識的な監督なら彼は2トップの一角かウィングで起用するところなのだが、パスが下手で足が異常に早く、キープ力とドリブル突破に優れ、センスよりも身体能力でサッカーをしているウタカがセンターMFなのだ。これは外国はもとより日本では考えられないことである。日本ではトップ下は中田や中村、小笠原、遠藤などなどといったタイプであり、俊足を起用するという考え方は皆目無い。しかしこれが実に機能していたのだ。サッカーとはほんとにおもしろい

試合は結局1−0のまま終わったのだが、チェルシーの明るい材料と言えば、後半70分にバルサからの新加入ベレッティを右サイドバックに入れ、それまでそのポジションにいたエシアンがボランチに入ったのだが、ここからチェルシーは急に動きがよくなる。これはベレッティのおかげではない。エシアンが適所に入り臆病なミケルが出て行ったことが理由である。ミケルは若干20歳であり、超期待の星なのだが未だパスが前に出せないのだ。ついつい安全な方向にパスをするからボールが彼を経由するたびにリズムが悪くなる。彼は昨シーズンも同様のプレーをしていたのだが、昨シーズンの最後の試合である、FAカップファイナルではユナイテッド相手に好プレーを連発したことから今シーズンは大いに期待していたのだが、まだ時期早尚のようである。まぁ彼はモリーニョのお気に入りだろうからこれからもチャンスは与えられ続けるだろうが、早く結果を出して欲しいところである。最後に、私の大好きなジョー・コールは未だ爆発せず。

3)ローヴァーズ(ブラックバーン)情報
強敵エヴァトンと対戦したローヴァーズは先週のアーセナル戦に比べ若干おとなしい目。まぁそんなに乱暴にいかなくてもある程度ボールが回ってきたというのも理由の一つかもしれない。イエローは4枚。上々である。ゴールは我がサヴェッジからモーテン・ガムスト・ペダソンを経由し新加入のサンタクルスがフィニッシュ。もうこれ以上ない最高の形である。しかし1−1という点数にマーク・ヒューズ監督は不満を漏らしている。いや、今シーズンはローヴァーズに大いに期待出来そうだ。後はマッカーシーの爆発を待つのみ。

4)ボルトン VS フラム
中田の所属していたボルトンであるが、現在は私の応援するニコラス・アネルカが淡々とプレーしている。彼は何故かとても孤独に見える。チームにも友達がいるのとても心配だ。しかし、アーセナルでプレミア得点王、そこからレアル・マドリッド、マンシティ、フェネルバチェと何度も性格上の理由で解雇されながらも現在ボルトン所属なのだが、しかし迫力がある。そして雰囲気がある。もちろんフランス代表にも名を連ねる。彼のインタビューによると、彼は今ボルトンが非常に気に入っているらしい。出て行きたくないらしい。しかしチームがお金が必要なら売られてしまうこともあるだろうと言っていた。そう、ボルトンには今複数のチームから魅力的なオファーが来ている。あのマンチェスター・ユナイテッドもその一つだ。移籍期間が終了するまであと3日。8月31日の23時59分までに彼がボルトンを去るというのはいくらでも起こりえるのだ。余談は許さない。どうしてもユナイテッドには行って欲しくないのだが。

5)その他の試合、選手
私の大嫌いなアーセナルとリヴァプール関連の試合についてい簡単にまとめておくと、アーセナルですばらしかったのはファブリガス。昨シーズンにも増して輝いている。しかしFWが頼りない。スピーディーかつ上手につなぐアーセナルのサッカーはこなしているものの迫力が無い。マン・シティーはGKのシュマイケル2世が良かった。最初の3戦では、どこの素人がキーパーをしているのだろうと首をかしげてみていたものだが、エリクソン監督も納得しているよう、彼の昨日のパフォーマンスはなかなかのものであった。リヴァプールはフェルナンド・トーレスが非常に良い。昨年まで4強で唯一超一級のストライカーを持ち合わせていなかったがリヴァプールであり、統計的にも過去4年間では他3つのチームが4年トータルでほぼ同数のゴールを挙げているにもかかわらず、リヴァプールだけ40ゴールほど少なかったのだ。はぁ。先が思いやられる。今年はリヴァプールが来るかもしれない。そういう意味でもチェルシーにはほんとがんばって欲しい。
| - | 16:23 | comments(11) | trackbacks(0)
私がここでサッカーについて書くのは初めてなのだが、私は実は大のサッカーファンである。サッカーファンと言ってもマニアのように追っているのはイングランドのプレミアリーグのみ。今日は昨日の試合マンチェスター・ユナイテッドVSマンチェスター・シティー、チェルシーVSリヴァプール、アーセナルVSブラックバーンを振り返りながら、今期の最終順位を大胆予想してみる。

1)マンチェスター・ユナイテッドVSマンチェスター・シティー
試合内容は前半は圧倒的にユナイテッド。シティーは全くと言っていいほど何もできなかった。が、この前半を終えた時点でリードしていたのはなんとシティー。ジォバンニのシュートがユナイテッドのディフェンダーに当たり大きく方向変えながらゴール左隅に吸い込まれる、まぁ言わばラッキーな得点であった。この時点でユナイテッドが2−0でもおかしくない試合内容にもかかわらずシティーが1−0で終われたのはほぼ奇跡。しかし後半に入るとシティーがぐっとよくなる。退場者を出すにもかかわらずユナイテッドになかなかの善戦をする。シティーはシュート数こそ圧倒されたもののキレのあるカウンターで応酬。スヴェン(シティーの監督)の采配の映えるゲーム展開となった。この試合で最も輝いていたのはシティーのデフェンダーのミカ・リチャーズ。将来有望な英国人DFはことごとくユナイテッドのチャンスをひねりつぶした。ポジショニングが抜群。足も速い。また空中戦も強くいつでもイングランドの代表でプレーできる素質がある。がっかりしたのは私の大好きなアルゼンチン人FWテヴェス(ユナイテッド所属)。ウェストハム時代も彼の大ファンであり去年はスタジアムまで彼を観にいったものだが、昨日はワントップで全く活躍出来ず。けがで離脱中のルーニーと比較されメディアに潰されなければよいが。不安が残る出来であった。

2)チェルシーVSリヴァプール
しかしチェルシーはどうしてこんなにもリヴァプールとの相性が悪いのであろう?リヴァプールは変なチームに簡単に負けるくせにチェルシー戦だけは親のかたきのように攻め立ててくる。私はリヴァプールが死ぬほど嫌いである。プレミアで最も嫌いなのがリヴァプール。僅差で2番目に大嫌いなチームはアーセナル。試合内容は、前半は完全にリヴァプールのペース。今夏移籍してきたスペイン人FWファルナンド・トーレスには悲しいほど完璧にゴールを決められ前半を1−0リヴァプールリードで折り返す。後半開始、クラディオ・ピサロを投入したチェルシーはようやく目を覚ます。チェルシーにしては珍しくボール支配率も高く淡々と攻撃を仕掛けるなか、後半31分待望のPKをもらう。これはどう見てもPKではなかったのだが。何せあの大げさなジェスチャーでチェルシーいち審判に無謀にアピールするドログバですらただひたすらキョトンとしており、一言もアピールをせず。そんなことにはおかまいなくランパードが非常にキレイにこれを沈めて1−1。そしてこのまま試合終了。思うことといえば、チュルシーは引き分けで非常にラッキーだったということ、ランパードよりジェラードの方が輝いていたということ。マルーダよりロベンの方がドリブルにキレがあるということ、エシアンを中盤で使いたいということ、などなどなどなど。言い出せばきれが無い。

3)アーセナルVSブラックバーン
私はこの試合を全部は観ていない。が、いえることはブラックバーンが去年にも増して暴力的にプレーしているということ。特にロビー・サヴェッジ隊長を筆頭にデイヴィッド・ベントレー、ライアン・ネルソン、トゥーガーイあたりはほんとにヒドイ。結局この日も1試合で10枚のイエローカードが出た。私は実はブラックバーンはかなり好きなチームである。プレミアでは2番目くらいに好きなチームである。このラフなプレースタイルも大好きである。しかしあのバルセロナ、ユナイッテドで大活躍をし紳士度も非常に高い名監督の元にどうしてこのような極悪チームが育つのだろうか。ほんとうに疑問である。しかも監督のインタビューを聞いていると彼のサヴェッジに対する信頼は相当なものだ。まぁデフェンスにおける貢献度は低くはないもののやはり、試合を通してあまり効果的な選手には見えない。どうも無駄に走っている感が拭えない。しかも本人は自分をベッカムだと勘違いしているようだし。フリーキックを率先して蹴るところや(制度は低い)、金髪を伸ばし妙にお洒落しているあたりからも容易に想像がつく。私はサヴェッジのそういうところが大好きなのだ。試合は1−1。まぁ憎きアーセナルに勝ち星を謙譲しなかっただけ上々である。アーセナルはやはりエース不在が痛手である。アンリがいないことを若手中心のチームワークでカバ出来るのか?今年のテーマはその一点だと思うが今のとこ無理そうだ。一見個々の選手が伸び伸びプレーしているように見えるのだが・・・、例えばファブリガスなど髭までぼうぼうに生やしちゃってすっかりたくましく見えるのだが、サッカーのエースはやはりFWでなければならないのだ。MFでは締まらない。今シーズン、ビッグ4で超1級のFWがいないのはアーセナルだけ。


さて。
ここで大胆予想といこう。

チェルシーは何だかんだでここ3シーズンと同様の調子。相変わらず退屈でギリギリのサッカーをするものの安定感はずば抜け。今年は優勝するでしょう。

ユナイッテドはルーニーのいない間にどれだけ負けないか。ちなみに去年は2位のチェルシーでも年間に3敗しかしていない。このチーム、乗ってくると止められない。全戦力がフィットしてくる後半戦、奇跡の13連勝とかしそう。でもチェルシーに届くか。開幕3戦のつけは非常にでかい。

リヴァプールは去年より伸びてくる。ベンチの層が厚くなった今年、後半戦の過密日程も昨シーズンより疲れを溜めずに戦い抜くだろう。ジェラードが怪我しないことが大前提。今どこのチームの誰よりもリヴァプールにとってのジェラードは存在感がでかい。裏を返せば依存しすぎとも言えるが。

アーセナルはよくて4位。よくて。

ビッグ4以外のチームは簡単に。トットナムは4位か5位。マン・シティー、エヴァトン、6位7位争い。ニューカッスル、ポーツマス、レディングあたりが翌年のUEFAカップに滑り込みを狙う。個人的に応援しているのはサンダーランド。10位に入れば超上々。

というわけで最終順位表は・・ (若干の私的希望もこめて)

1. チェルシー
2. マンチェスター・ユナイテッド
3. リヴァプール
4. トットナム
5. エヴァトン
6. アーセナル
7. マンチェスター・シティー
8. ニューカッスル
9. ブラックバーン
10.ポーツマス
11.レディング
12.サンダーランド
13.アストン・ヴィラ
14.ウェストハム
15.ミドルズブラウ
16.ボルトン
17.フラム
18.ウィガン
19.バーミンガム・シティー
20.ダービー
| - | 22:53 | comments(0) | trackbacks(0)
最近何かにつけ「地域格差」「貧困層」などという言葉を耳にすする。先日の参院選自民党大敗を受け、「地域格差や貧困層の出現は小泉・安部改革の結果だ!」としてますます声高に叫ばれている状況のようだ。ほんとうにそうなのだろうか?私は疑問に思うのである。

あらかじめて言っておきたいのだが、私は改革推進派を支援するため、また個人的な好みで自民党を支援するためにこんなことを言っているのではない。ただ私が私なりに思うことを率直に書いているのである。

1)地域格差
まず、地域格差が改革の結果であるという論理的根拠は一体何のであろう?おそらく誰も説明できないだろう。なぜならば論理的に言って「改革」と「地域格差」は無関係だからだ。もし何となく関連しているような気がするならばそれはあなたがメディアや民主党に踊らされているだけだ。批判するのは簡単である。だか理由もなく勝手にいろんなものごとを結び付けないで欲しい。言うからには、思うからには理由がなければならない。なぜならばこれは政治の問題だからだ。

私にはむしろ小泉・安部改革はこの格差を是正する方向で動いていたように思える。例えば有効求人倍率はこの数年間でほとんどの地方と呼ばれる場所で上昇している。落ちていてもせいぜい0.1というようなレベルである。都会に比べ成長率は遅いものの日本は概ね全体的に成長しているいえるのだ。そして現実的に、例えば東京とどこかの地方都市の間で経済的格差を完全にゼロにすることなど可能であろうか?もちろん不可能である。これは誰でも認めるところであろう。ではどこまでの格差はOKなのだろうか?明確な線引きは不可能である。私は有効求人率が上昇している以上、全体論として格差に関しては文句は言えないと思う。改良策としては地方分権を推し進めることにのみあると思う。国民新党の言うようないわゆる旧体質の公共事業や赤字国債を大量に地方に持ち込むというのは全くのお門違いである。

じゃあ国民の感情はどうなんだ?という意見もあるようだ。
昨日の世論調査では「あなたは豊かになっていると感じますか?」という質問に対し、YESは7.5%にとどまりNOが78%にものぼったということだ。が、これには理由が2つあるように思う。まず一つ目だが、実際に給料はあまり上昇していないということである。ここ5年の給料の上昇率は1.04%にとどまり全く増えていないといえる。しかし現実にはデフレが起こっており物価は下がっている。結果暮らしは楽になっているハズなのだが何ぶん給料が増えないのだから豊かになった感じがしていないのである。この状況は国内に限定すればどうってことない。しかし現実には輸出入によりお金を稼いでいるのであり、対外的にみて日本の価値を上げ、結果として長期的スパンで日本を押し上げていくには物価を維持及び弱上昇+給料の上昇といういう形で暮らしを楽にしていかなくてはいけない。「一個人が豊かになっていると実感できていない理由」の2つ目であるが、これは国民感情なんて所詮あてにならないということである。例えば1992年まで続いたいわゆるバブル時代にも全く同様の質問がなされており、1991年の回答では過半数を超える70%弱の国民がやはりNOと答えているのである。またバブル崩壊後の1995年の統計を見ても80%近い人がNOと答えている。国民感情があてにならないというのはいささか言葉が過ぎたかもしれないが、現実的には「豊かさ」を日々の生活から実感するのはほぼ不可能に近いのである。そんなことも考えずただメディアの出す数字に共感してそして政治政策を批判しているようでは世の中何も変わらないであろう。

2)貧困層
ニートやら派遣社員やらフリーターやら。そういう人のことも含め経済的弱者が増殖しているらしい。しかしこれも論理的に改革と結びつけることは不可能だ。どうして改革のせいで貧困層が増えたと言えるのだろう?まともな理由は全く無い。貧困層の増加は改革の結果ではなく、「グローバリゼーション」のせいなのである。グローバリゼーションが理由で貧困層が広がっているのは何もここ日本だけの話しではない。これは世界的に見られる状況なのである。今までは日本は「民間の福祉」というようなものが存在していた。国が助けなくても民間が勝手に福祉的なこともしていたのである。これには日本人の体質が大きく関わっており、それは「村」の体質であり、情(情け)の感情を基にお互い見捨てず救済しながら進んできたのである。しかし、バブル崩壊あたりから状況は変わった。リストラなんていう言葉が流行ったのもちょうどその頃からだが、海外ではリストラははるか昔からの常識であった。つまりそれまで海外に当然のようあったものが日本には無かったのである。M&Aを筆頭とするマネーゲームもそうである。情を捨て、あっさり人を見放し切り捨てる。こういう社会的倫理観がここ10年で急成長してきたのである。それによりお互いに施してきた民間の福祉は消え去り、ところが国による福祉は未だ整備されておらず、こういった状況がいわゆる貧困層を増殖させたのだと思われる。これにはやはり教育、地方分権といったことが効果的であろうと思われる(今回は長くなるのでそれについては書かない)が、つまり今日のテーマとして言えるのは、やはり改革と貧困には関連はないということである。

| - | 11:15 | comments(0) | trackbacks(0)
もともとそれほど豆に書いていたわけではないのだが、このブログも気付けば2ヶ月半ほど放置していたようだ。今はちょうどお盆で帰省中。時間をもてあまし気味ということもあり久々に少し書くことにする。

実は私、先日ニューヨークに行ったのだ。現地の友人を頼りに単身渡米し10日間滞在した。結果的に私はそのニューヨークという街に心底惚れてしまったのだ。この「惚れた」というのは、単に「NYはよかった!」という感動の意ではなく、「今すぐは無理でも、将来的には何が何でもあの街に住むぞ!」という揺るぎない決意という意味だ。まぁ、現実私がそこに住めるかどうかは別にし、一体ニューヨークの何が私をそこまで思うに至らせたかを説明しようと思う。つまりニューヨークの魅力についてである。

NYというのは実に不思議な場所である。これは私だけでなく非常に多くの人が感じることらしのだが、着いて街に出た瞬間、あたかも自分がその街にもう随分長く住んでいるような、そんな錯覚に陥るのである。で、私もこれには見事にやられた。到着後数時間後には、街に対しどこか懐かしくそして慣れ親しんだ感がふつふつと沸き起こっていたのだ。そしてこれは2日目の事だったのだがさらに面白かったのは、私を泊めてくれた友人まで私が長い間NYに住んでるような気がすると言い出したのである。

一体どうしてこのような錯覚に陥るのだろうか?
それはその街並みを映画やニュース等の映像で見慣れすぎているためであろうか?
それともあまりに多くのニューヨーカーが非常に温かく親切なためであろうか?

私はその理由をこう考える。
それはNYが自由だからなのだ。

横柄な言い回しになるかもしれないがご容赦いただきたい。ただ、ひょっとすると日本人としてずっと日本に住んでいて突然NYを訪れてもこの自由な空気はわからないかもしれない。もちろんNYの空気が日本のそれと違うことには気付くであろうが、でもパリやタイやモロッコの空気とNYの空気の違いには気付かないと思うのである。パリやタイやモロッコは単なる例であって、ここで言いたいのはNYの空気の自由度が他のどの国のどの空気よりも圧倒的に自由であるということなのだ。では私がここで言う自由というのは一体何なのであろう。それは人としての自由、人のアイデンティティの認知に関する開放である。

長く他国に居ると気付くことがある。自分が外国人であるということだ。例え何年居て、どれだけそこに自分の明確な場所を確保できてもあなたは外国人なのである。言い換えると、あなたはあなたである前に外国人なのである。私は私である前に日本人なのである。海外で私は常に日本人という石碑を背負って歩いている。そして1分1秒たりともその石碑を降ろすことはできないのだ。その石碑の重さは国によって異なる。そして滞在期間によっても異なる。通常ある国がより他民族で構成される国家になればなるほど重さは軽減される。そしてその国により長く滞在すればするほど重さは増してくる。私の背中の石碑はもう人一人を十分に押しつぶせるほど重くなっている。ただ私もそれに何とか耐えられるくらいには強くなっている。

ニューヨークは世界中で唯一私が石碑を降ろすことができた場所だ。空港を出、地下鉄に乗った瞬間私は訳分からず微笑んだ。そしてしばらく微笑み続けた。その圧倒的に自由な空気に心底感動していたのだ。そしてその時私は日本人である前に私であった。全ての者を受け入れる街、ニューヨーク。10日間の滞在の間私はただひたすらその事を確かめ続けた。摩天楼にもセントラルパークにもブルーノートにも一切の美術館にも行かず私はただひたすら自分が自分としてのみ受け入れられていることを確かめるのに奔走した。簡単なことだ。街を歩き、人と出会い、話す。知り合いの知り合いに会い、話す。自ら歩くこと、そして自ら発言すること。これをニューヨーカーや現地在住の外国人がどう受け止めるか。7日目の夕方、5日目に知り合ったニューヨーカーと自由の女神像を観に行った。元来絵画や彫刻に一切興味を示さない私なのだが、正直産まれて初めて像というものを観て感動した。それはまぎれもなく、私が求め続けていた「自由」の象徴であった。ただ御託抜きに感動するしかなかった。結局2人ベンチに座ったまま約5時間もただぼー然と自由の女神像を観ていた。

多民族国家が全てこういう空気を擁してるのではない。例えばロンドンはNYにも負けない他民族都市である。しかし私の背中の重い重い石碑はそのロンドンで3年かけて積まれたものである。では何故NYだけがそのような正確を帯びているのだろうか。もちろん今の私に知る術はない。住んでみなければわからない。しかし住まなくてもわかることもある。それはNYという街の魅力である。圧倒的な魅力である。私にとってNYは住んでみるまでもなく都なのである。
| - | 22:34 | comments(0) | trackbacks(0)
今日は私の世界観について書く。

イントロ
世界観とは「世界とはこういうものだ、その中で人はこう生きるものだという、世界・人生に対する見方」のことである。だから世界観は人によって異なるし、それは宗教や教育、時代に大きく影響を受ける。つまり現実は一つしか存在しないのだが、その見方である世界観はたくさん存在する。

宗教と科学
大局的にみて、世界観を提供するものは宗教と科学であると私は考える。そしてこの点において宗教と科学は全く同じものと見なすこともできる。これについては後に詳しく書く。

まずは宗教である。人間はみな自分がどこから来てどこに行くのかということにあくなき興味を示す。この問いに答えるものが宗教である。すべての宗教は生前あるいは死後の世界について明確な記述がある。そして自分が幸せになるためにこの現世でするべき行為が示されている。この意味においてはイスラム教もキリスト教も仏教もその他のどんな宗教も全て同じである。ただ重要なのはそれぞれの宗教は異なった世界観を提供しているということ。そしてその世界観は自分の信じている宗教以外の人間にはあてはまらないということである。例えば、キリスト教は全ての人間が等しくイエスに愛されていると教える。しかしそんなことは仏教信者やイスラム教信者に言わせれば全く意味のない迷惑な話しなのである。なぜなら仏教は仏教で「仏陀からの生きとし生けるもの全てへの慈悲」を教えるし、イスラム教には一神教アッラーがいるのである。みな自分の信仰する宗教の神から愛を受けそれで十分なのである。繰り返すが宗教はそれぞれの教義つまり世界観をその信者にのみ提供しているのである。

科学も同じである。科学も科学特有の世界観を提供する。この意味においては科学も宗教である。言い換えると、科学教はその一神教である「合理性」を中心に強烈な世界観を提供しているのだ。欧米の合理主義はもちろん、日本でも「自分は合理的に生きている、論理的に物事を考える」と思っている人は多いと思う。こういう人は私に言わすと科学教の信者なのである。だから先ほどの話しをもう一度ここで使用するが、科学の考え方を宗教と混ぜることはできない。それはキリスト教の教義をイスラム教信者に押し付けるようなものである。もう少し具体的に言うと、イスラム教の教義やその信者の言動に対し「非科学的だ」と批判するのは根本的に発想がおかしいと言わざるをえない。例えば、「昨日私は知らない街で偶然知人にあった」-(1)という文を想定する。この文章に違和感を抱く人はまずいないと思われる。ここでポイントなのはこの「偶然」という単語なのである。この言葉は科学教の合言葉なのだが、物事の起こりうる確率が非常に低く、合理的に説明しえない時に使用される非常に便利な言葉なのである。では先ほどの文章をこう書き換えるとどうであろう。「昨日私は知らない街でアッラーのおかげで知人にあった」-(2)と。多くの人がとたんに怪訝な顔するのが予測される。が、この(2)は(1)と一体どれだけの差があるのだろう?物事の起こりうる確率が非常に低いときに「アッラーのおかげ」という言葉を「偶然」の代わりに使っただけである。この違いの発生はそれぞれの世界観のスタート地点にのみある。どういうことかというと、現実にはどうせ人間には説明できないものが山ほどもあり、それを説明するにはただ盲目的に信じることのできる何かの力がどうしても必要なのである。科学教ではその「何か」を合理性と呼び、コンテクストにより偶然・奇跡などという言葉も使用されるだけである。そしてイスラム教ではその「何か」がアッラーなのである。だから、イスラム教の人間も我々と全く同等の知性を備えており、そういう意味では「合理的」でもあり、もしも我々がアッラーの存在を信じるならば、今日からでも何の苦もなくイスラム教の社会で暮らしていける。どの宗教、どの世界観においても論理の道は常に「合理的」に連続しており、スタート地点さえ飲み込んでしまえばあとは誰でも辿ることのできる1本道なのである。それは黒魔術を信じる社会でも同様である。彼らは確率で説明できない出来事を「誰かの黒魔術のせいだ!」と言うだけなのである。だから彼らが「偶然」という単語を盲目的に信じるならば、彼らは今日にでも日本で合理的に生活を送ることが出来るのだ。我々がイスラム教徒や黒魔術の社会の人々を非科学的となじるのは根本的に意味が無い。それは彼らが我々のことを非アッラー的・非黒魔術的と呼ぶのと同程度に意味がないからである。もしそのことに気づいていないのならば、その人は科学原理主義であり、イスラム原理主義と呼ばれる排他的で危険な人々と同程度に危険な発想の持ち主と言えるだろう。

では次に科学と宗教におけるもう少し大局的な人生観の話しに移る。人生というものを「真っ暗な迷路」と仮定してみよう。「生を受ける」ということはその迷路のスタート地点に立つことである。あなたはそこから先に進んで行かなくてはならないのだが、そこは真の暗闇なのである。科学の教義(世界観)の中では、あなたは真理という名の小さな懐中電灯が与えられる。自分自らそして時には他人の懐中電灯の明かりにより、目で見える部分を盲目的に信じ、また目で見えない部分には恐れを抱き、疑い、時には分からないと開きなることを潔いとする。目に見える部分は「合理的」と捉えられ、目に見えない大部分は「偶然」という単語で捉えられる。宗教は違う。宗教の教義(世界観)には真理の懐中電灯は存在しない。しかし代わりに神の声がある。あなたはもう自分の目で見ようとする必要はない。目は閉じたままでも良いのである。そこでは神の声が真理であり、それを盲目的に信じて進んでいけばよいのである。「次の角を右、その先を左」と神が上から教えてくれるのである。そう、その角を左に曲がったのは「合理性」や「偶然」ではなく「神のおかげ」なのである。もう一度先ほどと同じ質問をしよう。科学と宗教に一体どれだけの差が存在するのだろう?いずれにせよあなたは人生という名の巨大暗黒迷路を彷徨っているのである。プロセスこそ多少ことなるが何かを盲目的に信じ進んでいくしかないのである。私には科学も宗教も同じものにしか思えない。キリスト教、仏教、イスラム教、科学教、ヒンズー教、ユダヤ教・・・ こう並べて何の差支えもないと言い切れる。

歴史
歴史も世界観を提供すると考える人もいるが、私は歴史をそのようには捉えない。なぜならばこの考え方は非常に危険だからである。この考え方はマルクス主義に強く影響を受けている。マルクス自身はおそらくルソーあたりから影響を受けているのだが、彼は歴史をそして人間の歩む道、つまり世界観を次のように捉えている。人間が(他の動物と異なり)人間である理由は、人間のみが自分自身に問題を設定しそれを解決することにより、よりよい自分になろうとするところにある。つまり人間は脳みそを使い時と共に進化していく生き物である。具体的には西欧の歴史を分析すると「原始社会」→「アジア的社会」→「封建社会」→「資本主義」と進化してきたことが確認でき、彼は後に「社会主義」にまで発展すると予言した。最後の予言が失敗に終わったことは近年では事実だが、実はそれ以前の4段階にも大いに問題がある。これは単に西欧諸国および日本をはじめとする先進国がたまたまこういう道を辿っただけあり、これをして全人類の発展の道とするのは甚だあつかましい話しである。というのも、もしもこれが「全人類の発展も道」であるならば、原始社会は発展途上ということになり、資本主義より劣っていることになる。ではブッシュマンやアマゾンの人々は我々より劣っているのだろうか?彼らは知性的にも文化的にも我々より劣っているのだろうか?もちろんそんなことは絶対にない。全ての人間が同等に知性的であり、全ての文化や言語には優劣は存在しない。これを詳細に説明するスペースはここにはないが(またの機会に説明する)、これは科学的にも人類学的にもとっくに証明されている事実である。歴史を発展の道として観察しそれを世界観として捉えるというのは、傲慢な西欧中心主義を牽引する我々の悪しき習慣を助長するものと考えられる。
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第2回言葉シリーズということで今回はもう少し言葉の本質にせまる。テーマはずばり「言語とは一体何なのか?」である。第1回で述べたように世の中にはたくさんの言語(約6000)がある。ではその一つ一つの言語とはどのようにして捉えるべきなのか。今回はこの問題について書く。

純言語学的見地
純言語学的に言うと言葉は3つの要素を持っている。それは語彙・文法・音である(言語の3要素)。余談ではあるが、それがゆえ純言語学は3つの部門(統語論:Semantics,文法論:Syntax,音韻論:Phonology)に分かれている。では言葉とは純言語学的定義によってのみ決定されうるのだろうか?つまりある言語とはその言語特有の語彙・文法・音を擁しており、その言語の話者はみな同じ語彙・文法・音を擁していると言えるであろうか?答えはNOである。まず単純に、全く同じ語彙・音を擁している2個人など絶対に存在しないということ。そして同じ言語の話者でも使う文法でさせ個人により異なるということだ。例を挙げてみよう。
1. I haven’t seen anything.
2. I ain’t seen nothing.
(1)と(2)は全く同じ意味である。現実では決して少なくない英語のネイティブ・スピーカーが(2)を選択する。しかし英語の教科書では(2)は文法的に完全に誤りである。実際ワードでタイプすると(2)では赤線が引かれる。そしてこれはとある特定の地域の方言とかいったものでもない。では、もし言語にはある特定の適切な文法がありその文法に従って話すことがその言語を話すということならば、(2)を積極的に使用する人たちは英語を話しているとは見なされないことになる。しかしもちろんそんなことはない。(1)を選択する者も(2)を選択する者も共に英語のネイティブ・スピーカーなのである。つまり文法的に正しいということはその言語の話者である資質とはあまり関連がないのである。このように、言語の3要素を言葉の定義として話しを進めていくと、全ての個人が異なった言語を話すということになってしまう。これでは困る。言語とは例えば日本語、英語、中国語といったものであり、ある集団がそれらを話しており、個人個人によって異なるものではないからだ。

相互理解(MIH)という観点
では別の言葉の定義の仕方はあるだろうか?例えばこんなのはどうであろう。「もしある2人が互いに理解できるならば、その二人は同じ言語を話している。」つまりその二人が多少違う形態の言葉を使用しているとしても、それは一つの言語の中での異なった種であるということだ。これは相互理解に基づく言語の定義であり、Mutually Intelligibility Hypothesis(MIH)と呼ばれるもので、言語に対する我々の一般的な認知にかなり近いものとも言える。MIHの長所は、上記の(1)と(2)の両方の話者が英語の話者であると見なせることにある。また異なった語彙や音を擁する者、異なった方言を話すものもMIHでは同じ言語を話していると見なされる。しかしMIHにも短所がある。最大の欠点は、実際に存在する非常に多くの言語は相互理解の観点からのみではとても区分しきれないということだ。最初の例は相互理解が可能であるにもかかわらず異なった言語として認識されている言語達である。例えば、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語の3語は国際的にも現地人の私的感情的にも全く異なった言語として認識されているが、実は相互理解が完全に可能なのである。このような例は世界には山ほどもある。ヒンズー語とウルドゥー語もその例の一つである。2つ目の例は、同じ言語の中の異なった種としてみなされているにもかかわらず、全く相互理解が成り立たない例である。例えば中国語である。中国語は英語ではChineseであり、イタリア語ではCineseであり世界的に「中国語」というカテゴリーで認識されている。しかし実際にはマンダリンの話者と広東語の話者では相互理解は不可能でありMIHでは説明できない。また英語のネイテイィブ・スピーカー同士でもスコットランドのグラスゴー出身の人とアメリカのルイジアナ州の人ではおそらく相互理解は不可能であると思われる。しかしどちらの人も疑いようも無く英語のネイテイィブ・スピーカーなのである。ここでもMIHはうまく機能しない。

このように、言語の3要素もMIHも言葉を正確に定義することはできないのならば、一体どのような角度から言語を考察すればよいのであろうか。

言語区分の社会的及び政治的性格
様々な種類の言葉は実は社会的にそして政治的に区分されている。つまり、言語はその性格上話者のアイデンティティであり誇りであり、文化を代表するものでもあるのだが、そういったものは社会的にかつ政治的に人為的に与えられる付帯的な性格と言えるのだ。例を見てみよう。
1) かつてはSerbo-Croatと呼ばれる言語が存在した。これはユーゴスラビアでセルビア人とクロアチア人が使用していたスラヴィック言語の一つで単一の言語だった。しかし内戦の末ユーゴスラビアはセルビアとクロアチアに分裂。このときそれぞれの国がSerboとCroatは異なった言語であると主張し、結果セルビアではセルビア語、クロアチアではクロアチア語と名付けた。しかしその2言語間における実際の違いは若干の語彙を除けばほとんどなく、現在も相互理解は完全に可能なのである。
2) ヒンズー語とウルドゥー語は事実上全く同一の言語である。元は共にヒンダスタニ(Hindustani)と呼ばれるインドの一つの言語だったのだが、宗教上の理由によりインド在住のヒンズー教徒は彼らの言語をヒンズー語(Hindi)と名付け、またインド及びパキスタン在住のイスラム教徒は自分たちの言語をウルドゥー語(Urdu)と名付けた。よってヒンズー語とウルドゥー語の違いはほとんどない。若干の違いは、各々の言語の命名後、ヒンズー語はサンスクリット語をウルドゥー語はアラビア語を基にしていくつかの新しい単語を作ったという所にある。
3) デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語は全て相互理解が可能である。この中でも一部のノルウェー語とデンマーク語は特に似通っている。これは数世紀にも及びデンマークがノルウェーを占領していたことが原因である。ノルウェーは独立の際、植民地時代を払拭するため自分たちの言語をノルウェー語と名付けた。
4) 中国語では前述の通り、マンダリン、広東語、台湾語などの異なった種が存在し、相互理解は不可能である。が、中国語というカテゴリーは確かに存在し、また、中国人は人種として結束意識が強く、そのアイデンティティの一つに「中国語」と呼ばれる言語を話すというもが含まれる。

このように言語はまず初めにその社会でもっとも勢力のある団体が意図的に選択しているのである。つまり言語とはある社会の中でそのメンバーが意思・感情を伝えるために使う音声および音声をもとにした表現方法であり、そのメンバーや文化のアイデンティティ形成に一役も二役もかっているのだが、こういったものはその支配勢力の意図の下になりたっているのであり、人為的に選択されていると言い切れる。こういった例は世界中で見られ、例えばタンザニアにおけるスワヒリ語、インドネシアにおけるインドネシア語、イスラエルのヘブライ語、パキスタンのウルドゥー語、スリランカのシンハラ語、ブータンのドゾグカ後、台湾のマンダリンなどである。

簡単なまとめ
では結局言語のあり方そしてその区分を決定するものは何か?私なら自信を持って「社会的かつ政治的要因」と答える。しかし、これも実は言葉のあり方を完全に説明しているとはいえない。なぜならば、それは言語の多様性はうまく説明できているが、言葉の発生までは説明できないからだ。言葉の発生の話しをしようと思うと、今度は「言葉が先か、概念が先か」という問題に触れざるを得なくなる。これにはついてはまたの機会にする。
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数年前のことだが私は2年ほど塾で働いていたことがある。

私が勤めていたのは京都にある小さな塾だった。生徒数は全校舎の全生徒を合わせても500人いたであろうか。専任の講師は各教科に一人ずつ。学園長が英語、塾長が国語、その他2人の講師が数学と社会を担当しており、私は理科主任であった。あとはバイトが数人おり何とか回っている状態である。私は就任前にその塾で半年ほどバイトをしており、その後私のことを気に入った塾長、学園長が私を理科主任に誘ってくれたのであった。

みなさんは塾という職場をどのようなものとお考えだろうか?
実は塾というのは総じて超適当な職場なのである。普通の会社とは大きくことなり、上司や同僚との関係が非常に薄く、また服装も割りと自由がきき、どちらかというと少し道を外れた感じの人が働いている。私が勤めていた塾は昼の1時出勤で、終わりはだいたい夜の11時から12時半ごろであった。つまりまともに普通の会社で働けない人が集まっているのだ。ちなみに給料は非常に少ない。

そんな塾にも人間ドラマは山ほどある。楽しいことも悲しいこともむかつくことも。生徒は10歳から15歳であり常にガチンコ勝負の日々なのである。今日は第一回塾講編ということでそのむかつくこと、つまり「ふざけた生徒及びその親」を中心に書いてみる。ここでいう「ふざけた」というのはもちろん「なめた」「むかつく」「決して許せない」といった意味である。

ふざけた度:★
最初のふざけた君は当時小学校4年生であった。彼は学年No1の秀才であった。入塾テストでも一番であったし、小テストでも常に一番であった。が、彼はその年で既に怠けることを覚えていた。例えば私が「はーい、みんな。今から30分間でこの練習プリントやりますよー!最低2枚はやりましょうねー!できる子はもっともっとやりましょうねー!」なんて言うと、普通の小学生は一生懸命全速で取り組み、自然と枚数を競い合いながらどんどんやっていくものである。が、他の生徒がそうやってがんばっているなか、彼は30分ぎりぎりいっぱいかけてちょうど2枚しかしない。それもペースを調整しながら、あたかも全力で取り組んで30分めいいっぱいでちょうど2枚やり終えた振りをするのである。若干10歳で楽することを覚えているというのは一体どういうことなのであろう。先が不安であった。

ふざけた度:★★
次のふざけた君は当時中学3年であった。彼は見た目はジャイアンに似ており、実際友達の間でも大きい顔をしていた。彼はよく遅刻した。しかしあんまり悪びれないのである。私が勤めていた塾は地域密着型の小規模塾であり、生徒の生活態度にももちろん口をはさむ。ある日私が彼を注意した。「おい!遅刻するな!ちゃんと時間通りこい!」。彼はすねた。そして予想もしない行動に出た。なんとそのまま家に帰ってしまったのである。そしてお母さんに泣きついたらしい。ここでさらに驚きだったのはそのお母さんのとった行動である。彼女は塾に電話を入れ、学園長を指名し、「うちの息子が遅刻しようとどうしようとうちの勝手でしょ!お金を払っているのはうちです!」と捲くし立てたそうだ。学園長が謝り事は落ち着いたが、私は少なからずショックを受けた。子が子なら親も親なのである。

ふざけた度:★★★
次のふざけた君は小学校4年生であった。そう最初の秀才君のクラスメイトであった。今回のふざけた君はクラスで最も出来の悪い子であった。出来の悪い子にも一生懸命愛を注いで教えるのは講師の役目である。それは何も問題ない。そう彼自身には問題はなかったのだが、ふざけているのは彼の両親であった。彼の両親はともに小学校の先生だったのにである。小学校の先生というのは、必然的にたくさんの子を見て教えてきたわけであり、小学生を育てることに関しては最もプロフェッショナルな方々なわけである。しかしそこの両親は根本的におかしかったとしか言いようがない。

新年度が始まって間もないころ彼の母から塾に電話があった。私が応対した。
母「来週以降、その次の週にやる範囲を全て教えて欲しい。」
私「はぁ・・。構いませんが・・。基本的には予習はしてきていただかなくてもだいじょうぶなようにしてありますが。塾自体が小学校の予習のような形でありますし・・・。」
母「いえ、塾で授業する分も前もって予習させないと。ていうのも。ある程度予習させていかないと、もしもうちのXXXちゃんが授業中に内容がわからなったり、他の子が手を挙げている時にうちのXXXちゃんが手を挙げられなかったりしたら、うちのXXXちゃんが引け目を感じてかわいそうでしょう??」
私「・・・。わかりました。」

この小学校教師の母親は一体何を考えているのだろう?そういうことならば家庭教師でも雇えば良いのではないだろうか。そもそも自分が教えればいいのではないだろうか?その後もこの母親からは予習範囲の細かい内容、その他もろもろについて何度も電話がかかった。私は所詮雇われの講師であり、お金を払っているのはその母親である。丁寧に「はい。」「はい。」と応対するしかない。私も全力を尽くしたが、その子は結局最後までそのクラスで一番できなかった。彼は今どうなっているのであろう。あの親では心配である。

ふざけた度:★★★★
林という子がいた。当時彼は中学2年であった。彼はとてもとてもふざけていた。対照的に彼の父親はめちゃくちゃ硬派であった。林と彼の父親は林が中学一年の時当塾にやってきた。開口一番林の父は言い放った「うちの息子を男にしてやってください。何発殴ってくれてもかまいません。うちの息子が怪我しようが骨折ろうが一切文句いいません。すべてお任せします。しごいてやって下さい。お願いします!」そして林に半ば強引に頭を下げさせながら、父も深々と頭を下げた。

林は人間的には超ポジテティブ思考であり、背は学年最小、彼の好きな女の子の名前は学年中に知れ渡っているというやつだった。頭の出来は決して悪くない。ただ彼は勉強しない。どうしても勉強しないのである。これには我々講師陣も深く悩まされた。

ある日私の堪忍袋の緒が切れた。もちろんそれまでの林の愚行の積み重ねがあってのことだったのだが。私が塾の中であれほど怒ったのは後にも先にもこれが一回きりであった。その日の彼は、一番下のクラスの子が1時間で平均8枚ほどできる超簡単な練習プリントを2時間かけて1枚半のみこなした。私は怒った。そこに不幸にも学園長まで通りかかり、二人掛かりであの手この手で40分間説教した。単に怒鳴る、諭す、説得する、友達の努力の話、お父さんの話、情に訴える話、やれる限りのことを尽くした。くたくたになった。40分後我々は言った「わかったな。もう行っていいぞ」。すると林は僕の顔を見てこう言った。
林「はぁ。そうめん食いたいわぁ。先生そうめんゆがいて。」
私「???・・・」
彼の思考回路は一体どうなっているのだろう?私にはそのそうめんがどっから湧いて出て来たのかも不明であるし、何が何のことであるのかさっぱりわからなかった。もう我々から言ってやれることは何もなかった。学園長と目を合わせ、彼もまた言葉が無いのを確認した。そしてとにかくただただ愕然とした。

ふざけた度:★★★★★
最後のふざけた君は当時中学1年だった。

そもそも塾講師というのは教室の中ではカリスマなのであり、言いたいことは何でも言う。そして生徒はそれを信じついてこようとする。だから大げさに言うと、私も生徒に夢を与えるような先生になろうとしていた。そして努めて正しいことを教えてようとしていた。よって社会での様々な出来事をビシバシ批判する。2000年当時社会に名を轟かせていたオウム真理教も私が授業中に批判したものの一つであった。

ある日の授業、私は言った
「みんな、最近オウム真理教とかあるけど、あんなんについて行ったらあかんねんで!」

授業自体問題なく進んだ。そして授業後一人の生徒が私の元にやってきた
生徒「先生。ソンシの悪口をいわないで下さい・・・」
私「!?!!??」(やってしまった。これはヤバイ)
私「いや、まぁ私にも宗教の自由と言論の自由はあるからな。」(様子をみながら)
生徒「ソンシの悪口を言わないでください」
私「次からはこの話はせえへんから。」
生徒「・・・」(帰って行く)

これには私も肝を冷やした。そう彼はオウムの在家信者のお子さんだったのだ。人並みに考えられる全ての不幸を想像した。とにかく怯えた。

彼はそれからも毎週毎週授業に来続けた。そして毎週授業後講師室にいる私を訪れ「先生、これおどうぞ」と言ってオウム幹部の生写真を置いていった。私は頑なに拒否したが、彼は「どうぞ」と言って無理やり写真を置いていった。1枚目は「上祐ブロマイド」だった記憶がある。私はそれらの写真を捨てるに捨てられず、講師室の棚の端っこにそっとためていくことにした。

1学期の最後の授業の日彼はなんとカセットデッキを丸ごと持って来た。中にはカセットが入っているのが見えた。
生徒「先生、これどうぞ。」
私「どうぞって・・こんなん困ります。」
生徒「いえ、うちの親が「持っていけ!」と。」
私「いや、でも先生はこういうのは頂けません。」
生徒「とにかくおいていきます。」
そして彼は帰ってしまった。私は真っ青になった。「もしも再生ボタンを押して爆発でもしたら・・・。」が、同時に愚かな感情も芽生えていた。「見届けたい!何が起こるか見てみたい!」こんなときに役立つのがバイト君である。私はまずそのカセットデッキにコンセントを挿し、そして講師室の角に置いた。そして私自身は講師室の反対の角に逃げ、半ば机の下に頭ごと潜り込みながらバイトの榎本君を呼んだ。
私「榎本先生!ちょっとその再生ボタンを押してもらえませんか?」
榎本「???これの再生ですか?なんで自分でされないんですか?」
私「いや、いいからちょっと押して!」
榎本「なんかあるんですか?(私を見ながら)変ですよ!」
私「いいから押して!」

榎本君はしぶしぶ再生を押した。するとファンキーな歌が塾に鳴り響いた。
「ショショショショショショショショショペペペペペペペペペペペペペペペペ・・・」
言わずとしれたソンシの歌である。私は爆発しなかったことにいささかの不満を覚えつつもとても安心した。

まとめ
塾にはさまざまなお子さんが来ている。子は親の縮図とはよく言ったもので、生徒の数の分だけ異なった家があるのだ。小5の望ちゃんは真っ白の毛皮に豹柄のミニスカートで登校していた。3者面談ではお母さんはもちろん予想通りのど派手かっこうでやってくる。そこまでわかりやすくなくとも、本当に子はよく親を表している。いろいろな家の子が来ている分だけこっちも物言いには気をつけなければいけないのだ。右翼の家の子、やくざの家の子、オウムの家の子。何年もやっていれば絶対に全て担当することになる。口は災いのもと。しかし教壇では講師はカリスマ。ついついやってしまうのである。
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シリアの現大統領バッシャール・アサド氏の2選目が確実とういうことだ。このシリアという国、日本での知名度は意外に低いように思う。名前は聞いたことがあっても、どういう国なのかは知らない人が多いのではないだろうか。実はこのシリアという国、相当にややこしい国なのである。あまり科学テ的な物言いではないが、世界でも最もややこしい国の一つと断言できる。今日はこの複雑な国シリア、そしてその大統領及び政治に注目する。

シリアは中東のど真ん中に位置するイスラム教の国である。正式名称はシリア・アラブ共和国。土地は山、肥沃な平地、砂漠から構成されている。国の歴史はその侵略と戦争の歴史と同義であるのだが・・ それには様々な説がありそれが元で侵略と戦争が起こり続けているので、ここではシリアが公式に発表するものをごく簡単に紹介する。紀元前300年頃この地に建国したのが始めとされ、その後ローマ人に侵略され前領土を喪失。15世紀頃にはモンゴル人に侵略されオスマン帝国の統治下に。1905年にオスマン帝国から独立するも1920年にはフランスに占領される。1946年に再び独立するも1958年にはエジプトと合併しアラブ連合共和国になる。しかしこれは名目上は連合国であるが、首都はエジプトのカイロであり事実上エジプトが吸収合併したものであった。3年後の1961年、連合を解消し独立、現在に至る。その後は各種武装勢力への武器提供に始まり、レバノン及びイスラエルとの長期に渡る戦争もあり、アメリカや国連軍とも極めて仲が悪く、まさに中東の問題児なのである。近年では2005年にレバノンから全軍撤退したものの、昨夏のレバノン対ヒズボラ(イスラエルの武装勢力)の戦争でもシリアは重要なポジションにおり、米大統領のジョージ・ブッシュが英首相のトニー・ブレアーに「うっとしいのは、この戦争をやめさすのにシリアにお伺いをたてるというようなクソみたいなことしなければならないことだ!」と失言(ブッシュ本人は彼の発言がメディアのマイクには届いてないと思っていた)をしたのも記憶に新しい。

シリアは宗教的にも複雑だ。圧倒的多数はイスラム教・スンニ派である。しかしアサド大統領も属する(アラウィ派)、キリスト教、その他数種の宗教もまじっている。人種的にはアラブ人が大半だが、クルド人、アルメニア人、アッシリア人なども存在する。

現大統領のアサド氏は前大統領の次男である。彼はロンドンで眼科医になるべく留学していたのだが、長男が車事故で死ぬと同時にシリアに呼び戻され、軍役を経た後、2001年、34歳(シリアでは大統領の法廷最低年齢は40)という若さで後を継いだ。そうこの国の大統領は事実上完全世襲制なのである。ちなみに前大統領は30年間その職にあり、現職のまま死んでいる。法律上も大統領には絶大な権限が与えられており、完全な独裁政治である。そんな中、アサド現大統領は就任以来、独自の方行を進んだ。まず前大統領である彼の父が牢屋に放り込んだ大量の政治犯を解放した。その後彼は初の民間による新聞の発行の認可、インターネットの導入に踏み切った。各種政治集会も認められ民主化の訪れも予感させながら、彼の第一の公約である経済の向上は全力で取り組まれた。

が、うまくいかなかったである。経済は低迷を続け、各種政治集会は現政治体型に文句をつけ始めた。結果としてものの数年の内に体制は逆向していく。政治集会の禁止、新聞の禁止、国内に2つのみあるネットカフェも国営であり、閲覧可能なサイトは国によってい制限されている。そして現在政治犯が約500人檻に入れられている。

理由の一つは実質的な政治の形態にあると思われる。アサド大統領は政治経験も浅く、実質的には旧政府幹部による院政が敷かれている。官僚も彼らについており、実際現大統領は前大統領のように強権を振りかざすことはほとんどないのである。就任当初の彼の動きにはそれまでの政策とは異なった彼独自のアプローチが見られた。それは時には民主化の流れを強く汲むものであった。おそらくロンドン時代の留学経験が彼をそういう方向へ導いたのであろう。しかし旧体質に固執する老獪な政治化や官僚との確執は不可避であった。現在シリアはますます時代を逆行している。歯止めはかかるのか?大統領の任期は7年である。憂国の大統領、2選は確実。2期目の彼に何ができるのか?今シリアから目が離せない。
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絶滅の危機に瀕している言語が山ほどある。どのような言語がどのようにして消えていくのか。その理由は?復活の希望は?復活させる理由は?今日はそのようなことを書いてみようと思う。

一般的な情報
世界には約60億の人間がおり、そして約6000の言語がる。しかしこの6000の言語の中で母体が一億人以上のものはたったの9つなのである。その9つとは、英語、スペイン語、ポルトガル語、中国語(マンダリン)、ヒンズー語、アラビア語、ロシア語、バングラデッシュ語、そして日本語である。ちなみに母体数がトップ20の言語は約32億の人間により話されている。さらに驚くべきことは、全言語のたった4%が世界総人口の96%に使用されており、つまり96%の言語はたった4%の人間によってのみ使用されているという事実である。

消滅の危機にある言語、その死
母体数がある基準値を下回るとその言語は「消滅の危機にある言語(Endangered Language)」に認定される。具体的には二万人あたりがその基準値である。しかしこれはあくまでも一つの基準であって、母体数がこれよりはるかに多くとも非常に速い速度で消え行く言語もある。例えばBretonという言語がる。この言語は1905年の段階では150万人もの話者がいた。ところが現在ではBretonのスピーカーは25万人にとどまる。このままいくと今世紀中には消滅すると推測されている。もう少しデータを紹介すると、2007年の時点で約200の言語はその母体数が10を切っている。また500の言語はその母体を100以下とし、2500の言語は1万人以下しか話者を擁しない。全体的には、世界の総言語数の三分の二に相当する、約4000の言語が「消滅の危機にある言語」として見なされており、2から3世代のうちに死滅するといわれている。

では言語が死ぬというのは具体的にはどういうことなのか?言語が死ぬというのは、その言語の最後の話者(ネイティブ・スピーカー)が死んだ時のことを指す。日本のような事実上の単一民族国家(もちろんアイヌの方々、挑戦人を筆頭とする在日の方々のことも全く忘れていない)に暮らしているとこういう話にはどうしても疎くなりがちだが、世界的にはこの考え方は改めて述べる必要のない常識に近いものだのである。実際に、19世紀最後半以降は世界各地で言語学者が活躍しており、言語の死がその最後の話者の名前、死んだ日と共にきろくされている。例えば「西コケージャン言語のウブー(Ubuh)は1992年10月8日の明朝にトレヴィック・エセンチ(Trevic Esench)が死んだ時に死滅した」といった具合である。

消滅の理由
主に7つほど理由が考えられる。部分的に重複するものもある。

1)経済的理由
2)政治的理由
3)社会的理由
4)国際化の影響
5)学校の影響
6)天災の影響
7)婚姻

全てを説明するととめどなく長くなるおそれがるのでここでは最も重要なものを挙げる。それは(1)の経済的理由である。人々はより経済的に強い言語を話そうとし、経済的に弱い言語を忘れていく。なぜならば人々はより豊になりたいからだ。日本でも英語や中国語が話せると就職、昇進にプラスになるのと同様である。役所で働くため、国際的に活躍するため、医者、弁護士になるため、より高い教育を受けるため、人は学校でも家庭でも積極的に「より標準」とされる言語を話そうとするのである。もしもこの世に貨幣という概念がないならば、そして資本主義という概念がならば、おそらく上の(1)から(7)のほとんどは解決されるであろう。この意味において言語消滅もやはり資本主義の影響が非常に強いといえる。

(1)から(7)に示したように言語の消滅には様々な要因があるわけなのだが、実はこれらの理由だけでは消滅の直接的な理由にはならない。言語が消滅する時、これらの要因にプラスαとして働く最も重要な原因がある。それは「言語維持のモチベーションの低さ」である。これは言語学者が現地に訪れるたびに感じることなのだが、そういったマイナーな言語の話者は驚くほど自分達の言語に固執していない。自分達の言語が消えてしまうことを全く何とも思ってないどころか、むしろよりメジャーな言語を習得することの方にこそ関心を持っている。言語を維持していくことに意味を見出せるのは専門的に教育を受けた言語学者達だけなのである。つまりその意味をナントか伝えたいとする気持ちは言語学者のエゴなのでもある。

維持・復活の希望、その理由
言語も他の多くのもののよう消えてゆくのはたやすいのだが、維持及び復活は至難の業である。しかし僅かながら望みはある。

1)マイナー言語の話者への金銭的支援
2)現地政府による公用語としての認定
3)言語学者による調査・Help

1)と2)はその言語の話者にその言語を話せることの意味と誇りを与える。経済的な成功、行政へのアクセスは言語維持への高モチベーションを生み出す。スペインのバレンシア地方はこの良い例である。そしてこの全てに関わるのが言語学者である。彼らは資金集め、現地政府との交渉・説得、現地民との会話、データ収集・解析、学校への教育的指導などを行う。多くのマイナー言語は書体を持たないのだが、言語学者はその書体作成、辞書作り、その言語の教科書作りといったこともしていく。

では何故消え行く言語を放置してはいけないのか?一つ目の理由は「自然界の摂理として、多様性というものが健康的な環境の基本である」ということだ。これは経験論的にエコロジーの分野で常識とされていることなのだが、自然世界には多岐に渡る種が存在するべきであり、それらのバランスこそが「自然界の健康さ」であるというものだ。二つ目、言語は各人種のアイデンティティーであるということだ。多くの人は自分が自分の部ループに所属することの理由に「そのグループ特有の言語を話すこと」を挙げる。例えば関西人は関西弁を話すことを誇りに思っており、それは関西人の重要なアイテンティティーの一つなのである。もしも関西弁が消滅するとなるとそれはもう一大事であり、おそらく関西弁保持運動が起きるであろう。言語が消えるというのはそういうことであり、言語を保持するというのもそういうことなのである。三つ目は歴史の保存のためである。「歴史を後世に伝える」「歴史を忘れない」などというのは非常によく耳にするフレーズだが、その歴史は言葉によって伝承されていくのである。が、上述の通り、マイナー言語の多くは書体を持っておらず、その言語の死はその国、土地、人々の歴史の死も同時に意味する。最後の理由に「異なった言語は異なった世界観を提供する」というものがる。ロシア人の作家Vjaceslav Ivanovは次のように述べている。「それぞれの言語はその言語特有の世界像を擁している。もし我々がそれぞれの言語に即して、この世界を様々なかたちで表現できるならば、我々は真の意味で豊かなのである。それゆえ我々は、環境や資源に対してするのと同様に、言語の保持にも多大な関心を払わねばならない」と。

多くの言語が消え行く中、維持・復活に成功した例もある。ウェールズ語、スワヒリ語、グアラニ語などもその例である。

言語維持には多大な労力を要する。繰り返すが、言語消滅の決め手は「言語維持へのモチベーションの低さ」であり、言語維持・復活の決め手は「言語維持・復活へのモチベーションの高さ」なのである。つまり言語の生死は個人個人レベルでの高い意識が不可欠であり、それを現地政府、言語学者を核とした周囲がサポートしていかねばならないのである。
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今月11日、ローマ法王がブラジルを訪れた。これは南米およびカリブ諸国で約10年に一度行われるカトリックの祭典に出席するためのものである。場所がブラジルであるのは、ブラジルが世界最大のカトリック教徒人口を要する国であることが理由である。この祭典では主要な神父がその後10年の南米およびカリブ諸国でのカトリックの在り方について協議する。とはいえ毎度毎度約10年おきにローマ法王がわざわざこの祭典に出向くのではない。では今回の訪問は何が目的なのか。

現代の問題への指針の提示
法王はブラジル到着後、開口一番中絶問題に言及した。「全ての生命は受胎の瞬間から自然死の瞬間までと尊まれなければいけない」と。その他これからの日程の中で、ゲイの存在を筆頭に現代特有の問題に関し「聖書に則った指針」を強調していくことが見込まれている。もちろんこれには何も新しいことはない。2年前の現法王就任の時点で彼が保守派であることは世界中の各種メディアから大々的に発表されいる事実である。

今回法王がわざわざその方針を確認しにブラジルに訪れたのは、近年の南米及びカリブ諸国の現代問題に関する傾向を危惧してのことだ。ニュースにもあるようこれらの国では中絶、ゲイ等の権利の主張を求める動きは規模を増す一方である。現にブラジル総理も最近「中絶問題は医療及び健康に関する問題であり、モラル(道徳)の問題ではない」という声明を発表している。これはどういう意味かというと「中絶問題は厚生省で協議される問題であり、宗教はそれに口出しするべきではない」ということだ。世界最大のカトリック教徒を要するブラジルでのこの動きに「カチン」ときた法王が今回圧力をかけにきたのだ。

何故このような問題が発生するのか・・
これは一言で表現すると「聖書の限界」と言わざるを得ない。聖書が作られた古にはコンドームやエイズいわんや中絶手術の技術もなかったのである。そして重要なのはその時代には大した科学もなかったのである。どういうことかというと、例えば日本の古い言い伝え、ことわざや習慣には現代でもおどろくような先人の知識(科学的知識)が隠されていることは周知の事実である。さばは生姜といっしょに食べるとおいしい(生姜がさばの寄生虫を殺す)とか。つまり聖書にもそういうレベルの科学的に合理的な教えがたくさんあり、当時、聖書は単なるモラルとしての世界観の提供に留まらず、科学的指針としても役に立っていたのである。しかしそんな聖書もさすがにコンドームやエイズ、中絶手術の問題には全く言及していない。聖書に記載されているのは「避妊はダメ」ということのみである。保守派の連中はこれを額面通り受け入れコンドームの禁止を謳う。一方革新派の連中は現在のエイズの状況を重く受け止め、特にアフリカや中南米の貧困地域で人々が教会を生活全般の拠りどころにしているような場所では、教会が率先してコンドームを配布するなどの動きを推奨している。この保守派VS革新派はご当地バチカン内でも激しくやり取りがなされている。各派、安易に方針を変えられない理由もここにある。お互いにテリトリーがり、相手の意見を採用することは自分たちの権威の失墜も意味するからだ。同じキリスト教でもプロテスタントはコンドームの使用、人工中絶を全面的に認めている。つまりこれはカトリックそのものの権威にも関わる問題なのである。

解決できる?
どちらが良いあるいは悪いということは一口には言えない。ただここで言えることは一つ。聖書ではこの現代の医療健康問題は対処しきれないということである。人間の生命に関するこの複雑な問題、性別とその人権に関する問題などは何千年も前に作られた教義を額面通りに受け入れるのでは対応しきれないということである。重要なことはブランドやプライドやや伝統の保持ではなく、「現状を改善していく」ことである。その方針の下に様々な知識人、宗教人が協議し臨機応変に動いていく。これしか方法はないのである。一つのグループの長が聖典を片手に「あーだ」「こーだ」と言ってもそこの信者に影響力があるばかりで根本的に問題解決はなされない。異なったジャンルの異なったグループの者達が「現状の改善」のために協力していう必要があるのだ。
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